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チケット販売開始

2022.01.16 (日)

葉っぱの落ちた裸木の枝が、空に映えて美しい。枝の先まで凛としています。
今は裸木でも、春に葉をつけようとする命の力強さを感じます。

さて、今日は「春のおやこ人形劇場」(芸術文化振興基金助成)のチケット販売開始日です。

3月6月日(日)久留米シティプラザCボックスでの上演となります。
演目は、人形演劇「どんぐりと山猫というはなし~一郎くんの立つ丘からみえるけしきはどんなけしき」です。

チケット販売は、石橋文化センター、久留米シティプラザ情報サテライト。劇団HPからもお申し込み出来ます。

コロナ感染防止対策を徹底するため、各ステージ71名定員です。
1日3ステージで、合わせて定員数213名。

御関心をお持ちの皆様は、早めのチケット御購入を、お薦めいたします。

最近の劇列車の催しは、チケット販売開始後に、1週間程度で売り切れてしまうことも多々あります。
今回の公演は、定員を増やしているため、さすがに1週間で売り切れという事態はないと思います。
一方では、早めのお申し込みでなければ、チケットが手に入らないということになりかねないと思うのです。

それであれば、お早めのお申し込みがもっとも安全だと思います。

さて今回作品は、昨年夏の第22回定期公演「どんぐりと山猫」を、大幅にブラッシュアップした人形演劇作品です。
いろんな意味で、興味深い作品だと思います。

皆様のお越しを御待ちしております。

【釜】






市民人形劇学校~実技編開催

2022.01.08 (土)

冬の凍てつく夜空、オリオン三つ星がきれいに並んでいます。
まるで、夜空から音楽が降ってきているようです。

さて、「市民人形劇学校~実技編」が、いよいよ明後日からに迫りました。
3日間のワークショッブです。

保育士の方々、小学校の先生、高校の先生、関心のある市民の皆さんと、参加される皆様は多様です。
どんなワークショッブになるのか、とても楽しみにしています。

内容は、子どもが好きな鉄板短編人形劇「なかよし」を実演できるまでになる3日間のプログラム。

短編人形劇「なかよし」を実演できるようになるだけでなく、人形劇表現のもつ豊かさを知り、上演を支える舞台の考え方までを知ることが出来る、充実した学べるワークショッブを企画しています。

準備は万端です。
参加を御検討中の皆様、まだ参加受付は締め切っておりません。
「面白そうだなぁ」という気持ちで参加できます。御参加いただければ幸いです。
劇列車HPからも、お申し込みが出来ます。

久留米の地で、子どもの前で人形劇を演じる大人たちが増えること。
いろんな方々が人形劇に親しむことが出来るようになること。
それは、私たちの夢の1つのです。

子どもが人形劇に親しむには、まずは大人が親しむことから。

そんな、少し遠い目標を掲げた市民人形劇学校~実技編がはじまります。

【釜】






新年を迎えて

2022.01.04 (火)

明けまして、おめでとうございます。
新しい年を迎え、皆様の御多幸をお祈り申し上げます。

さて、舞台アート工房・劇列車は、第二次中期ビジョン(2GP)到達に向けて、新しい年を歩いて行きます。

(私たちのいう「中期ビジョン」とは、「5年後」という中期スパンでの目標のことを指しています。
そろそろ完成年度が近づいてきました)。

劇列車2GPは、コロナ禍の影響を受けて、2020年に修正を加えました。
この修正内容は、劇列車を「職業化する」方向への大きな転換でした。

しかしこれは、ちまたでよく言われるような「演劇(人形劇)で飯を食う」ためのものではありません。

「好きなことで飯を食う」。
そんなことに価値があるとは、全く思えないのです。
社会の中で、どれ程の人が「好きなことで飯を食っている」でしょうか。

「だから私は幸せ」などと錯覚することは、その人の自由です。

けれども、それを客観的に言えば、「たまたまそれが可能な境遇にいた者が、自らの特権的地位に胡座をかいている」ことだと思います。
困難を抱えて生きる人々にとっては、「好きなことをして生きる」など、夢のまた夢なのです。

アマルティア・センは貧困を「人間の選択肢が狭まること」と定義しています。
特に経済的困難を抱えて生きる人々にとって、「好きなことして生きてる」ことなど、とても贅沢なことに思えるのではないでしょうか。
私たちは、そこに価値は置いていません。

(2GPから話がずれましたが、職業化議論の前提として、どうしても述べておく必要があることです)。

さて、話を進めましょう。
一方で、社会的な事業を責任を持って遂行していくためには、片手間で事業がやれなくなる時がやってきます。

また、そうならなくては、その団体の事業は意義がありながらも「停滞している」ということになるのではないでしょうか。

ですから、いずれ片手間でやれなくなることを予想して、「職業化」路線を打ち出したものです。

簡単に言ってしまうならば、NPO組織に専従者をおいていく。
その方向での「職業化」ということなのです。

正確を期していうならば、「職業化」路線ではなく、「専従者設置」路線と言ってよいものと考えています。

とはいえ、事務所兼アトリエの年間維持費、2020年に購入した運搬車両の年間維持費など、年間固定費の支出も増えています。

まずは、赤字経営状態であることから脱却し、自立した事業基盤の強化を図りたいと考えています。
それが2022年度劇列車運動の最大課題です。

私たちは、本気で「どんな子どもにも劇を!文化を!」というミッションの実現への道を歩いてきました。
ですから、「専従者を設置して事業の充実を図る」時が、必ず到来すると考えています。
ミッションと事業に責任を持つためには、その準備を開始しなければならないのです。


次に、かれこれ1年半取り組んできた宮沢賢治「どんぐりと山猫」(改称「どんぐりと山猫というはなし」)を、2月中旬までに今回の大幅ブラッシュアップを完成させます。

これは、2022年主力巡回作品としていく予定です。
2月~3月には、はやくも6公演が決まっています。
ですから、今はこのブラッシュアップに大忙しです。

観ていただける皆様に、最良の作品を届けること。
これは年末に述べましたように、運動(事業)発展のイロハにあたる大原則です。
今の私たちに出来る最良の作品を、2月にはお届けします。
皆様、御待ちください。


さて、具体的な記述はこの辺りにして、新年の抱負に入ります。

2022年が始まりました。
新しい年を、劇列車は、上述の2GP到達に向けて、ひた走りに走ります。
そして、今年もいろんな子どもたち、いろんな親たち、いろんな大人たちに出会うでしょう。
ほんとうに楽しみです。

そして、私たちはこう思います。
子どもや親の苦しみと喜び、大人たちの喜びと苦しみに出会たらいいなぁと。

喜びだけでなく、苦しみにも出会うのです。
いや、苦しみと喜び、それを丸ごと受けとめなければ意味がないのです。

芸術文化体験が受け手にとって、「社会的了承行為の網の目変更」になる。
そのことが大切だと思います。
ですから、提供する側も、相手の苦しみまでも受けとめる覚悟がいると思うのです。

私たちは、私たちの作品、私たちの声が届かない地点で苦しんでいる人々に、作品を届かせたい。

だから、私たちは作品創造に妥協しないのです。
それはなぜなのか。

半端な妥協をしていて、厳しい地点で生きる人々に届くはずないではありませんか。
彼らの苦しみと響きあう。
そのために、半端な作品を作ってよいはずない。

自らを取り囲む厳しさを跳ね返して生きる人々は、甘ったれた根性で作った作品など跳ね返してしまいます。

私たちは、どこか遠くの偉い権威から認められたいのではない。
そんなものは、あえてありていの汚い言葉を使えば「そんなものは犬にくわえろ」なのです。

私たちが表現の向上を目指しているのは、苦しんでいる人々がいるからなのです。
これは偽善ではありません。

よく言われることがあります。
「あなたたちは、何でそうなのか」って。
「その動機がよくわからないよ」とも。

それへの解答は、じつはとても簡単なことなのです。

私たち自身が苦しんで生きてきたから、苦しんでいる人々に届けたい。
たったそれだけのことなのです。

(もっとも、これは「開き直り」にも聞こえるでしょう。
しかし、あえて「開き直る」ことで解放されることもあるのです。
ドンと腰の座ることもあるのです)。


さて、うららかにあけた新年。
こんな劇列車ですが、今年もお付きあいいただければ幸いです。
皆様、どうか本年もよろしくお願いいたします。

【釜】






1年を振り返る

2021.12.26 (日)

冬至が過ぎました。
今からは、少しずつ日が長くなりますね。まずは日没時間が遅くなっていきます。

さて年の瀬です。

今は作品ブラッシュアップでてんてこ舞しています。
また「市民人形劇学校~実技編」準備も同時に進行しています。
なかなかに暇がないのですが、恒例の一年の振り返りをしてみましょう。
今年は「運動」の振り返りをしてみたいと思います。

時々ブログで書いてきましたが、舞台アート工房・劇列車は、いわゆる劇団ではありません。「演劇教育実践の運動体」なのです。
もちろん通り名がよいので、「人形劇団」と自ら名乗ることも多いのですが…。

私たちは作品創造に心血を注ぎますが、それは運動の発展には良質な作品創造が必要だからです。
私たちは表現者であろうとしていますが、同時に運動者であるのです。
決して作品創造のための創造を目指してはいないのです。

社会を少しでも人間的な社会に変えていくために(子どもを中心に据えた社会に変えていくために)、表現がどう寄与していけるのか。
私たちは、いつもそこを大切に考えています。

というわけで、私たちは「どんな子どもにも」というミッションを掲げて、演劇教育運動をやってきたのです。

教育のしごとの本質は、「魂」に触れるしごとであることです。

職業教師、アマチュア教師、生涯教育実践者、地域で子どもに関わる大人たち、それぞれがそれぞれに、深さ浅さの程度も様々でしょうが、それぞれに子どもの(あるいは大人の)「魂」に関わっているのです。

だから、子どもに関わる人々は、子どもの「魂」に対する尊敬を持っていなければなりません。
(これは私の長い職業教師としての体験から導き出された私見です)。

そして思います。
ようやく、様々な方々が「子どもを真ん中において」と発言しだしたなぁと。
今年は、特に増えたなぁと感じます。

一方では、「どんな子どもも真ん中において」と主張することは、じつはとても困難なことでもあると思うのです。

子どもは、大人や他者への攻撃的言葉や行動、自己への攻撃(リストカットや頭の毛を激しく抜き取るなどの自傷行為)を繰り返すこともあります。

彼らは、関わってくる大人が信用するに足りる存在なのか、まずは試し行動に出てきます。
子どもの受けた傷が深ければ深いほど、試し行動もたいへん激しいものとなります。

彼らの表面の行動や言動に惑わされずに、大人が子どもの「魂」の声を、自らの「魂」で聞き取ることが大切なのです。

次に、様々なSOSを発する子どもたちは、社会の片隅に追いやられていることが多いのです。
言い替えれば、社会の片隅に追いやられている子どもほど、深刻な危機的状態にあるということです。
こんな子どもたちは、片隅に棲んでいるがゆえに、「見えない存在」となり勝ちです。
社会のど真ん中に棲む大人たちからみれば、不可視の存在となり勝ちです。
大人には、見えなくなっている人々を「見る力」が求められます。

子どもは「社会の反映」なのです。
そのような感受性と視野を保持していななければ、大人たちの「子どもを真ん中において」という言葉は、単なる美辞麗句となってしまいます。

美辞麗句としてではなく、ほんとうに「どんな子どもも見捨てない」社会が、具体的に構築されいくことを望みます。

さて、運動という言葉を使って書いてきました。
「運動」とは、人と人が出会い、関係を組み替え、システム(目に見える制度)を少しずつでも動かしていくことです。

「教育運動」とは、子どもの魂に触れる畏れを忘れずに、触れることから生まれる希望を土台にしています。
その上で、人と人が出会う。
子どもの魂にそっと触れ、そして人と人の関係を組み替える。
目に見えるシステム(制度)を少しでも人間らしいものへと動かしていく。
それが「運動」なのです。

以上、長々と一般的原則論を述べました。

さて具体的には、劇列車は今年3月からバペットシアターPROJECTを開始しました。
これは、たいへん大きな一歩でした。
困難を抱え込んだ子どもたちへの芸術体験支援を、具体的に開始できたのですから。

この事業に助成をいただいた「ちくご川コミュニティ財団」の皆様、地域創造基金「さなぶり」の皆様、ほんとうにありがとうございました。
バペットシアターPROJECTは、助成をいただけなかったら、持続不可能な事業です。
とてもありがたい助成です。
深く御礼申し上げます。
この事業は、来年も継続拡大をしていく予定です。

そして「市民人形劇学校†研究実践交流編」。
実践報告や助言で関わられた皆様、ありがとうございました。

この参加呼びかけには大変苦労しましたが、様々な方々と新しく出会うことが出来ました。

特に、子ども食堂に奮闘する大人、フリースクールの維持に頑張る大人、子どもの文化運動に関わる大人、そんな皆様との出会うことが出来たことは、私たちにとっても学びの機会となりました。
また、私たちが決して孤立していないことを実感させられる機会でもありました。

来年は、地域で様々に行われている演劇教育の現場を見学させていただければなぁ、と目下構想中です。
せっかく出来た小さなネットワークです。
地に足がついた広がりを作っていきたいと思うのです。まずは、皆様方の実践から学ばせていただけたら、と思うのです。

こうして振り返ってみると、コロナ禍であっても劇列車運動は、バペットシアターPROJECTという具体的な形を生み出し、助成という形態で協同を生み出しました。

また、子どもと向き合い奮闘する大人たちと出会い、私たちが孤立しているわけではないことを痛感しました。

またコロナ禍であっても11回出来た巡回公演や様々なワークショッブで出会った皆様のことは、ここでは書ききれません。
いろんなことがありました。
私たちにとっては、これらの事業も、一つ一つが運動なのです。
ここで出会った方々からも、様々なことを学ばせていただきました。
ありがとうございました。

来年は、私たちの運動はもっと広がりが出るだろうと思えてなりません。

忘れてならないことは、
私たちの喜びは、出会う皆様の喜びであることです。
この原則を肝に命じて歩まねば、いとも簡単に「私たちの喜びは私たちだけのものとして完結する」事態に陥ります。
これは「運動」の堕落以外の何物でもありません。

地に足をつけて、決して驕らず、惑わされず、誹謗中傷は聞き流し、黙々と万を越すチラシを数え、寒風に負けじと外で金槌をふるい、汗まみれになって地道にしごとをし、時に毒舌を吐き、逆風が吹いても一歩一歩歩んでいきたいと思います。

一見「運動」とは無関係に見えるこれらのことも、じつは「運動」なのです。
これらのしごとを黙々とこなしていくことが、「地に足をつける」ということなのです。


随分以前になりますが、岩手ぶどう座の川村氏より年賀状をいただいたことがあります。
そこには、こんなことが書かれてありました。

「ふぷきが吹いたら人は前を向いて歩けなくなる、だから人は風に背を向けて歩いていく。
前を向いていなくても後ろを向いていても、人は確かに歩んでいる」。
そのようなことが書かれてありました。

とするならば、どんな逆風が吹いても、なにも怖がらなくていいということです。歩んでいけるのです。

どんな風が吹こうが、来年も一歩一歩歩んでいきます。
一見すれば蝸牛のような歩みですから、歩いているとは見えないかもしれません。

蝸牛の歩みは、人間の歩みよりもずっと遅い。
しかし、ちゃんと歩んでいますから、暫く目を離していると、姿を見失います。

蝸牛のようにゆっくりと、全力で力を出しきって、笑顔で(内側は必死の形相で)、確かに歩んでいきます。

皆様、よいお年をお迎えください。

【釜】






稽古の日々

2021.12.18 (土)

初雪でした!今年も残すところ、あと10日余り。

さて、いま、劇列車は約二ヶ月半の創造中心の期間に入っています(もちろん1月の市民人形劇学校~実技編はありますけども)。

この期間は、7月に初演した人形劇「どんぐりと山猫」のブラッシュアップ期間となります。
タイトルも人形演劇「どんぐりと山猫というはなし」に変わります。
初演を土台としつつも、内容を大幅に改定しました。
それなりに時間のかかるブラッシュアップ稽古となりそうです。

脚本ブラッシュアップにかけた時間は、その構想から数えると三ヶ月余り。
もう、1本の短編新作脚本が出来そうな期間ですね。

さて、宮沢賢治の作品には、突如暗いブラックホールのような穴が姿を現します。

例えば「銀河鉄道の夜」では「石炭袋」のところ。
カンバネルラが吸い込まれていく穴。ジョバンニが戦慄する空の穴のところ。

「猫の事務所」では、獅子の登場のところ。獅子が事務所を破壊しつくすところ。

「どんぐりと山猫」では、最後にポツンと取り残される一郎の絶対的な孤独のところ。

作品によって姿を変えながら、繰り返し現れる暗く底知れない穴。
それが賢治作品に深みを与えるとともに、濃い陰影を刻んでいます。この陰影は、哲学的陰影と言ってもよいものです。
賢治作品は、彼の哲学的表現なのです。

こここそ、賢治作品が安易な理解を拒絶するように見受けられるところです。
また読者は謎を投げかけられたと感じます。
解釈の多義性が生まれる核心でもあります。

私たちは、何度も賢治作品に挑戦しながら、この暗い穴を表現することにおいて、何度も挫折してきました。

これは賢治作品の肝であると同時に、劇化を試みる私たちが跳ね返されてしまう苦しみの部分なのです。

だって、原作通りにそれを表現しようとしても、まずはうまくいかないのですよ。
特に「どんぐりと山猫」は、ほんとにそうなのです。
一郎の絶対的孤独を、いったいどうやったら演劇(人形劇)で表現出来るのでしょう?
この孤独はどうして生まれる?その意味を、どうよみとく?

ここが脚本ブラッシュアップで、もっとも苦労したところです。
書き直して意見を聞き、また書き直して意見を聞き。そんな連続でした。

そして、たどり着いた結論は、「どんぐりと山猫」をそのまま脚色しない!という結論です。

いろんな御意見はあるでしょうが、一郎を現代の少年に置き換えてみたのです。

すると不思議なことに、一郎が生き生きとしゃべり出したのです。
この物語が、現代を生きる多くの子どもと大人の、自分の物語となっていくと思えてなりません。

夏の旧作では届かなかった方々に、作品が届き始める可能性がみえてきたのです。

賢治作品は、下手をすると、生活に押し潰される心配の比較的少ない「中間階層」の人々に受容されがちです。
美しい可愛らしい物語として。
それが悪い訳ではありませんが、それだけでは困るのです。

なぜなら、それは賢治の本意ではないと思うからです。
その証明は、ここではしません。しかし、確かにそうなのです。

脚本で深い奥行きを出すことが、何とかできたと思います。
賢治作品は、皆さん御承知でしょうが浅くない。
どころか、その底知れない深さに目がくらみ、「どうしよう」と絶望したくなるのです。

そして実際に書いてみると、原作の深さに到底手が届かず、「こんな浅いことしか書けないのか」と自己嫌悪に陥るのです。

自己嫌悪に陥らずに、脚本をブラッシュアップできて、ホッと一安心。ちょっと肩の荷が降りました。
それがどこまでの出来なのか?
お客様の反応は、謙虚に受けとめなくてはなりません。

ここからの劇化には、様々な次元の要素が絡み合う必要があるでしょう。

脚本ブラッシュに、チームが一切の妥協をしなかったように、作者として人形遣いとして、稽古も妥協を排して臨んでいきたいと思います。

力を伸ばすことは、そこからしか生まれません。妥協を排した表現に取り組むこと。
それには、妥協しない精神を、鋼のように鍛えていかねばならないのでしょう。

(妥協しない精神とは、安直に流れずに表現を突き詰めるエネルギーのことです。
これはじつは、なかなかに大変なことなのです。
けれども突き詰めないと見えてこないものがあります。
そこが表現にとっての肝となるところです。

鋼のように鍛えるとは、「もう限界だ」と思っても、思い直して「もう一歩先へ!」と前に進めるように鍛えるということです。
これは鍛える毎に、もう一歩先への射程が長くなります)。

その上にたってこそ、表現の試行錯誤が楽しめるのです。

表現の楽しみは、表現の苦しみの土台にたっています。
こう書けば、鶏が先か卵が先か、という話しになります。
一方では、そこからしか力は伸びないのです。
間違いなく、そうなのです。

なぜなら、脚本を書く苦しみの上にしか、書く楽しみはない。その事を、いやと言うほど、味わってきたから。そう思うのです。

いかに妥協なく表現し、しかもそれを楽しめるか。そのことが大切なのです。
そこに何が生まれるのか?
きっと、表現者としての精神の充実が生まれるのでしょうね。

【釜】






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