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第22回定期公演

2021.05.29 (土)

第22回定期公演「どんぐりと山猫」は、7月18日(日)石橋文化会館小ホールで開催いたします。

緊急事態宣言延長に伴い、チケット販売開始は宣言解除と同時に販売を開始する予定です。
販売開始日時については、後日広報いたします。

以下はチラシの紹介文「どんぐりと山猫はおもしろい」です。

「どんぐりと山猫を読むとおもしろい。
一郎くんのもとに舞い込む不思議な葉書がおもしろい。森のどんぐりたちと山猫の滑稽な裁判がおもしろい。馬車別当のえたいの知れない不思議さだっておもしろい。

どんぐりと山猫を読むとさびしくなる。森から帰った一郎くんのさびしさは、祭りが終わったあとのさびしさに似ている。不思議な葉書は二度と舞い込まない。まるでそれは、大切な何かをなくしたときのさびしさに似ている。

どんぐりと山猫は奥が深い。童話とあなどると読み手がノックアウトされる。読むたびに印象が違ってくるのはなぜだろう?

そんなどんぐりと山猫を人形劇にしてみました。どうぞ、お楽しみください。」

どんぐりと山猫は、とにかくおもしろいのです。しかしその物語は、侵略する側(人間社会)とされる側(イーハトーブ=森世界)の文化相剋(違う価値観の衝突)を描いたドラマでもあるのです。
そこから、私たちがあたりまえとする価値観を疑ってみたいと狙っているのです。

一方で、「どんぐりと山猫」は滑稽でユーモア溢れる作品でもあります。これは、この作品の魅力の源泉です。

価値観の衝突と、この作品の持ち味である「滑稽さとユーモア」を、どう両立させえるのか?
この二つが融合して、魅力的な人形劇に仕上げることが出来るのか?
厳しい試行錯誤が続いています。

「どんぐりと山猫」は、ファンタジーの外観をまとった哲学的物語であるといってよいのです。
「銀河鉄道の夜」やミヒャエル・エンデの「モモ」がそうであるように…。
ですから、台詞を追うだけでは作品の主題があぶり出されません。

いやあ、大変な作品に取り組んだものです。
分厚い壁のように、私たちの前にたちはだかっています。

まだまだ試行錯誤が続いています。

会館ガイドラインに沿ってコロナ感染防止対策はとっております。

【釜】






沈黙の文化

2021.05.22 (土)

新作「どんぐりと山猫」の人形が、どんどん出来上がってきています、
新しい人形(モノ)が出来上がるにつれて、「そのモノの魅力的な動きは何処にありや」と、人形をああでもない、こうでもないと動かしてみる時間も増えています。

時間はいくらあっても足りません。人形というモノが魅力的な動きを見せるということは、それが「どう動きたがっているか」という発見がなされているということなのです。

そんなことに忙殺されている(とっても大切なことなのですが)毎日です。

さて考えてみると、劇列車の作品は、いつも多数派に抑圧される少数派の問題を扱ってきたように思えます。

前作「ちょうふく山のやまんば」にしても、その前の「猫の事務所」にしても、「みなしごサキと子天狗こたろう」にしても、ずっとそう。

それはきっと、多数派が「少数派を縛る常識」を振りかざし、少数派を抑圧し断罪する局面に、私自身が何度も何度も遭遇してきたからなのでしょう。

もっとも抑圧し断罪を行う相手は、抑圧し断罪をしている自覚すらないのかもしれません。
少数派を常識はずれと見なし、善導しているつもりなのかもしれません。

差別をする相手は、差別をしていないと言い張るのです。それは、言い逃れをしているのではなく、本当に自覚がないのだと思います。

そこで、多数派と少数派の問題を、少し考えてみたいと思います。

さて私の嫌いな行為は、当人ではなく第三者に対して「あの人変わってるよね」と言う行為。
それは、第三者に同意を求める感情、第三者と自分が同じであることを確かめ、変わっているといわれる当人を排除する感情、それらに支配されていると思うからです。

私の嫌いなものは、家父長制的権威主義。
人間と人間の関係が、ボスと子分という形で形成されてしまう。そこから民主主義は生まれないと思うのです。

さて視点を変えてみます。
「政治」には、マクロポリティクスとミクロポリティクスがあります。
ミクロポリティクスの次元では、抑圧的な支配ー被支配関係や権力と服従の関係が、一見私的な人間関係として現象します。

それは確かに人間関係のあり方であるのですが、ミクロポリティクスの視点を持つと、事態が鮮明に見えてきます。

劇列車の作品は、視点を変えれば、このように抑圧的なミクロポリティクスの世界を描いてきたように思うのです。

では、それは何故なのでしょうか?

その答えは、「抑圧的なミクロポリティクスの世界での身銭を切り血を流す闘いなしには、社会がよりよい社会になることなどあり得ない」と思うからということにあります。

マクロポリティクスの世界での闘い(通常私たちが政治闘争と言っている行為)は、ミクロポリティクス次元での闘いに支えられているのです。

ミクロで闘えないならば、マクロの闘いは大変脆弱なものになります。所謂「地に足がついていない」ということになりかねないのです。
地に足がついていない闘いは、簡単に足元をすくわれます。

「世界で一番貧しい大統領」というドキュメンタリー映画を見ました。
ウルグアイでの政治闘争から生まれたムヒカ大統領。
この映画の中でしゃべる彼の言葉でもっとも印象に残ったのは、「社会主義的な政府の樹立(政治闘争)よりも、人の心を変える方(文化闘争)が難しい。こんなに難しいとは思わなかったよ。だから文化革命が大事なんだ。」という言葉です。
(正確な引用ではありませんが…。)

これは抑圧的なミクロポリティクスが抑圧的な人間関係として現象し、抑圧的な支配ー被支配関係が、抑圧的な文化によって正当化されてきているからなのではないしょうか。
正当化されているものに抗うのは、なかなかに困難です。だから難しいのでしょうか。

政治闘争の勝利で政治的な重しを取り除かれても、心の重しはまだそのままなのです。
だから政治闘争に勝っても、人々は支配ー被支配関係を正当化する支配者の文化を内面化したまま生きているのです。
ということは、マクロポリティクスの闘いは勝利しても、抑圧的なミクロポリティクスでの闘いには手がついていないということでしょうか。

そのような人々のことを、パウロ・フレイレは「沈黙の文化」にがんじがらめになっていると言ったのです。
そんな人々は、自己解放を求めるよりも、自分を支配してくる「ボスのようになって、ボスのように振舞いたい」と思うのです。それが彼らの夢となるのです。
ボスの価値観を、心に内面化すると、その方が安心出来るのです。自己解放に恐怖するのです。

ムヒカ大統領は、だから文化闘争の困難さを言い、文化革命の大切さを言ったのでしょう。

ミクロポリティクスの変革は、ムヒカ大統領に限らず、フレイレの実践など南米で注目されてきたように思われます。

私たちはそれを「現代日本の多数派と少数派の問題」として描いてきました。
それは南米が好きとかそういうことではありません。
私自身が、現代日本のミクロポリティクスの世界で、息をしずらいためであったのです。

「沈黙の文化」は、何も南米だけにあるのではありません。
21世紀の日本にもあるのです。弱まるどころか、むしろ現代日本における「沈黙の文化」は、強まっているように感じます。それは、私だけの印象でしょうか?

ここで「沈黙の文化」について、まとめて簡単に記しておきます。

それは、ブラジルの識字運動の指導者バウロ・フレイレが指摘した文化概念であることは、上述しました。
ブラジルの民衆文化に色濃く「沈黙の文化」があることを、フレイレは指摘したのです。

軍事独裁政治下、ブラジルの民衆は、農園のボスに従順でした。従順でなければ、ボスの組織する私的民兵たちからひどい目にあわされるからです。民兵の暴力は、政府の暗黙の承認によって、野放図でした。

そうすると、民衆はだんだん物を言わなくなっていきます。物を言うと危険なのですから。
「沈黙の文化」は、そうやって強固な文化に育っていったのです。

それでも民衆は、物を考えなかったわけではないでしょう。
しかし「話すことが出来ない」「話すことが憚られる」状況下では、恐ろしいことにだんだんと物を考えなくなるのです。
そうして、支配者の価値観を内面化していったのです。

ボスを倒すよりも、「ボスになりたい」と思うようになるのです。

フレイレの識字運動は、「私は何を考えているのか」を自覚してもらうことからはじめる運動でありました。
彼は言います。「私が何を考えているのか」を自覚することから、人間化の過程がはじまると。

フレイレのいう人間化とは、自尊感情を持ち他者を尊重することの人間になること、それだけでなく変革力を持った人間になることだと理解できます。
これは巷に溢れる通俗道徳ではありません。
自らが勝ち取る「認識の広がり」と「感性の変革」から生まれるものなのです。

さて話を戻しましょう。私たち国にも「沈黙の文化」は確かにあるのだと思います。
「話すことが出来ない」「話すことが憚られる」状況は、私たちの回りにもたくさんあります。

例えば、学校における国歌強制問題に、どれ程の教師が批判の矢を放ってきたでしょうか。

「あなたは気持ちよく歌っているだろうが、私には苦痛だ。私の精神の自由が侵されていると感じる。とするならば苦痛な生徒もいるはずだ。彼らは隠れている。隠れているからいないというわけではない。あなたは私の足、隠れた生徒の足を踏んでいる。そのことに気付け。」

そんな風に公に言い、行動することは、大変に危険な行為です。
東京都の例に見られたように、教師である身分すら、奪われかねない。
ですから、心の中ではそう思っていても「沈黙」してきた教師が多いのではないでしょうか?

ほんとうの心の真実は、しゃべってはならないことになったのです。
ほんとうの心の真実をしゃべることが出来ないと、教師は仮面(ベルソナ)を被りはじめます。

そこには、確かにフレイレのいう「沈黙の文化」が生まれています。
沈黙の文化が強固になればなるほど、教師は物を考えなくなります。恐ろしいことに、「考えていない」ことに気付けなくなって行きます。

そんなことは学校だけでなく、他の場にもたくさん、それこそ日常的にありふれていると思えるのです。

私たちの日常的な人間関係を、ミクロポリティクスの視点からみてみると、私たちの住む日常世界は抑圧と精神的暴力、構造的暴力に満ちています。

固まってしまった抑圧的なミクロポリティクスを解きほぐし、新たな対等で自由なミクロポリティクスの世界を探りたいと思うのです。
(これは昔から「箸の上げ下ろしに自覚的になれ」と、平易な言葉で言われてきたことです)

そのために下手ながら、「恥はかき捨て」とばかりに、作品をコツコツと創ってきたのです。
そうしなければ息が出来なかったから、そうしたのです。

「対等で自由なミクロポリティクスの世界」とは、もしかしたら見果てぬ夢なのかもしれませんね。見果てぬ夢とは永久革命のことなのかもしれません。

物事を近視眼的に損得でみることに慣れている私たちは、「見果てぬ夢には価値がない」と考えてしまいがちです。
しかし稀有の政治学者丸山真男氏(故人)はこう言っているのです。
「民主主義自体がそもそも永久革命だ」と。

私たちは、つい永久革命を遠い世界のことと感じてしまいます。
しかし、丸山氏によると「永久革命」とは、民主主義という見果てぬ夢を追って日々を生き、ミクロポリティクス次元での民主主義の闘いを恐れずにやり続ける行為のことなのでしょう。

見果てぬ夢には、皮肉や絶望は無縁です。
永久革命とは、見果てぬ夢を追いながら、日々の闘いを誠実に闘うことなのだと思います。

最後に。
私たちの作品は、そんな精神性に満ちた作品であると思っています。

作品は私たちが息が出来ないから創るのであり、息が出来ない人々と一緒に息が出来るようになりたいと思うから、創るのです。

これは私たちの作品に対する自信過剰なのでしょうか。確かにそうだといえます。
しかし、私たちの作品づくりの動機には嘘偽りはないのです。
とするならば、私たちの動機と作品との間に、まだ不均衡があるということなのでしょう。

だから敢えて、恥を覚悟して作品づくりの動機を主張することで、自分たちをのっぴきならぬところへと導くことも大切ことだと思ったのです。

のっぴきならぬところへと自分を追い込むことで、動機と作品の質的一致を生み出したいと思うのです。
【釜】






モノが動きだす

2021.05.18 (火)

久しぶりのブログ更新となりました。
2021年度通常理事会と総会が終わりました。。

参加された皆様、第二次中期ビジョンの修正含めて、4時間に渡る話し合いをありがとうございました。

さて「どんぐりと山猫」は、本人形もだんだんと出来上がり、舞台も塗られて本番の姿を現しはじめています。
それにつれて、各シーンも固まってきました。

今回作品では、特に人形操演が難航してきました。人形がどう動きたがっているのかを探り出す。単純な人形ほど難しいのです。
しかし、イキイキと動き出しさえすれば、人形は生身の俳優たちでは決して真似出来ない魅力に輝き出します。

さあ、あとは時間との勝負、体力との勝負です。事務局の実務をこなしながらの新作製作ですので、なかなか大変なのですが、がんばっていきましょう。

【釜】






日々の雑感

2021.04.21 (水)

4月も下旬に入りました。劇列車は「どんぐりと山猫」稽古と製作、5月開催予定の2021年度理事会と総会準備にてんてこ舞いしています。

どんぐりと山猫製作関係では、やっと舞台装置が仕上がってきました。昨年11月に製作を開始して、コツコツと約5ヶ月。あとは、やっと微修正の段階に入りました。今からの課題は「塗り」になります。

月曜日に野外にて、ある程度舞台を組んで見ました。大きな不具合もなくホッと一安心。5ヶ月の努力の結晶なので、思わず見入ってしまいます。いい感じです。
目標は、本番での組み立て60分、バラシで50分をクリアすることです。

なんとかクリアできそうか…。

様々な工夫を仕込んだ組み込んだ舞台装置ですが、まだ改善の余地も残しています。
どう素早く組み立ててばらすかは、ヒモやボルト、収納袋の材質や数などにも留意して、その使いがってのよさを工夫することも大切になってきます。

さて、理事会総会準備では、事業報告と事業計画、決算予算が完成しました。

私たち自身の事業について、①人形劇が内包する「民衆性」から見つめ直すこと、②マーケティング(創り手と受け手の共有出来る価値の創造)から見直すこと、③普及啓発と社会包摂の違いを押さえた上で、各事業性格を見直すこと。以上の観点から執筆と議論を行いました。

また、コロナ禍の中でも可能な自主事業を立ち上げ、2020年度に累積した赤字打開の礎づくりも狙っています。

さらに第二次中期ビジョン(アマチュア性を超えたアマチュアによる公演班2チーム編成)に、重大な修正も行いました。

以上の観点から、創造と事業(運動)・組織についての今までの経験を一度オーバーホールし、新たな観点で組み直してみたのです。
そんな事業報告と事業計画になっています。

さて、いろんなことは一つひとつしか進まないのです。
一つひとつのことは、それだけ(表層)を見ていたら、いま何をしているのかわからなくなることもよくあります。

大切なことは何か。
一つひとつの些細なこと(表層)が、何の達成につながるのか、一つひとつのことが何を産み出すのか、未来から今を見る「複眼の眼差し」をもつことではないでしょうか。

その「複眼の眼差し」は、表層に惑わされずに、表層に隠されている本質を見抜く「透視する眼差し」でもあるはずです。

そのような「複眼の眼差し」と「透視する眼差し」こそ、事業(運動)を成していくために、必要な眼差しなのだと思うのです。
それが、事業(運動)を支える実務の眼差しなのだと思えてなりません。

創造と事業(運動)は、いつも弁証法的に発展していきます。
あること(テーゼ)は、次に反なるもの(アンチテーゼ)へと変化し、高次の合なるもの(ジンテーゼ)へと変化していくのです。
その変化の原動力は、「矛盾と対立」そのものにあります。

ですから、表層に囚われてしまうとめげることもあるでしょう。
しかし未来から現状をとらえる「複眼の眼差し」と、表層の奥にある本質を見抜く「透視する眼差し」をもつと、めげずにすむのです。
そのことを「楽天性」と呼ぶのです。

それは、事業(運動)を担う人間が、ぜひとも身につけておきたい力なのだと思うのです。

【釜】






新作「どんぐりと山猫」、人形たちが動き出すおもしろさ

2021.04.12 (月)

3月末に集中した公演がひと段落し、年度末と新年度の事務作業に追われる日々です。
そんな中でも、新作「どんぐりと山猫」の稽古は進んでいます。

人形という“モノ”は本当に不思議です。遣い手が操って初めて動くのです。
…当たり前のことですね(^^)でもこの当たり前のことに、稽古の中で幾度となく気づかされるのです。

どういうことかと言いますと、どんぐり同士のケンカの場面を例にお話します。
“どんぐり”は15㎝程度の小さな人形です。そのどんぐり2体が、大きなどんぐりに向かって体当たりをする場面があります。
どんぐり2体は、一人の遣い手が片手ずつに持ち、操っています。右手のどんぐりと左手のどんぐりは、全く異なる性格です。

この2体のどんぐりがそれぞれ不規則なテンポで体当たりをすると、“右手のどんぐりと左手のどんぐりが体当たりをしている”ように見えます。
ところが、一定のリズムで交互に体当たりすると、“遣い手がどんぐりという道具を使って張り手をしている”ように見えるのです。

どちらも“体当たりをする”という表現を目指して行われた行為ですが、見え方が全く違うのです。
遣い手が動かして初めて動く“モノ”たち。ささやかな動かし方の違いが、見え方に大きな違いを生んでいます。

このような発見の積み重ねで、新作「どんぐりと山猫」の稽古が進んでいます。
毎回の稽古が、毎回の発見が、おもしろい。みなさんにお届けする時点でどのように仕上がっているのか、楽しみです。

【尚】






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