演劇と教育研究委員会例会を終えて

すっかり冬らしくなりました。本ブログが2023年最後のブログとなります。

24日日曜日は、演劇と教育研究委員会12月例会でした。
「浦河ペテルの家の対話実践」(塚本眞さん報告)をめぐって、たっぷり2時間フリートークをしました。
(ベテルの家を御存知ない方は、ネットで検索してみて下さいね。
たいへん興味深いことがわかってくると思います)。

フリートークでは「知的財産(知識やスキル)は、私的所有されてよいものか?」という問題が、私の心のフックに最もひっかかった議論でした。

知的財産は、多くの場合、個人の社会的地位向上や、名誉心の満足、個人の権威に人をひれ伏させることに向かいます。

これが私的所有。
これを違った言葉に翻訳すれば、「文化資本の獲得と蓄積」と名付けることも可能です。

(しかし、「資本」とはよく言ったものです。
資本とは利潤を生み出す「元手」のことですから、資本主義社会にあっては、文化資本を含めて、資本が私的に所有されるのが当たり前のことになっています。
だからか、文化資本の蓄積・私的所有が、あたかも善いことのような錯覚を生み出しています。
しかし、よく考えてみると果たしてそうなのでしょうか?
文化資本を蓄積して人より優位な立場に立とうとか、「そんな狭い了見をもつちゃあ、フテェ野郎だ」と言いたくなるのですが。
少なくとも私は…。)

そもそも知的財産は、社会課題を解決していくために有効に使われなくてはならないものです。
これは社会課題の解決を図るために黙々と活動しているNPO関係者なら、自然に解りあっていること。

簡単に言えば、「自分の知識やスキルは、困っている人のために使ってこそ」ということです。
これが知的財産の社会的共有。

新自由主義が席巻する現代においては、私的所有か社会的共有かという正面からの議論が、決定的に消失しています。
ですが、真面目に社会課題の解決に取り組んでいるNPO関係者たちは、違った言葉で同じことを、いまも活発に語りあっているはずです。

まとめてみます。
「私的所有か社会的共有か」という問題群は、決して古びたガラクタ問題群ではなく、知的財産(表現行為を含む)に対するラディカル(根底的)な問題群であり続けているということです。

いやはや、演劇と教育研究委員会12月例会は、個人的にもたいへん面白く示唆に富むものでした。

さて皆様。
2023年のブログは、いささか理屈っぽく終わりとなりました。
1年間の御愛読に御礼申します。

2024年は、世界と人間の危機がより深刻に進むと思われます。

「たとえ明日世界が滅ぶとも、私はただ黙々とリンゴの木を植える」という、一見悲観的にみえて強靭な楽天性を帯びたこの言葉を心にしまい、劇列車は黙々と2024年を歩むつもりです。
今までもそうでしたし、今からもそうなのです。

この不幸な時代にあっても、2024年が皆様にとって幸い多い年でありますように。
心からお祈り申しあけます。
来年もよろしくお願い申し上げます。

【釜】