さて、一昨日は演劇と教育研究委員会2月例会(通算9回目)でした。
報告は「言葉を紡ぎ自己を解放する野球部員たち~短歌・俳句の創作を通して~」(N短大付属高校城尊恵さん)です。
報告について一口にざっくり言うと、とても骨太でシンプルな報告でした。
一晩飲み明かしながら、酔いつぶれるまでフリートークを続けたい。
そう思わせるような魅力に満ちた報告でした。
きっと、そうやって飲む酒は美酒でありましょう。
(感覚的な表現ですみません。
そんな楽しみ方をしたいほど魅力に満ちた実践だ。そう言いたいわけなのです)。
もっと論理的に述べてみましょう。
高校生たちの心の中に渦巻いているもやもやに、高校生自らが言葉を与えていったとりくみといってもよいかもしれません。
自己を掘っていき、言葉を発見していく高校生の作業を励ました取り組みと言うことも出来ます。
借り物の言葉でなく、自分にとっての本物の言葉を発見していくことを促した取り組みともいえます。
自分にとっての本物の言葉…。
簡単に言われがちですが、それを見つけだす作業(自己内対話)をすることは、どんな場合でもとても苦しいものです。
とんでもなく苦しいことなのです。
自己の内側に潜っていって、得体のしれない何かに言葉を与えていく(言い換えると言葉を発見していく)作業は、突き詰めていかなくては出来ないのですから、とても苦しい。
突き詰めて、突き詰めて、もうこれ以上ムリというまで突き詰めて。
何が苦しいのかと言いますと、突き詰めることがとても苦しいのです。
でも突き詰めて言葉を発見した時、表現はシャープになり、苦しさは楽しさへと急速に変わります。
その意味で、苦しさと楽しさは裏表の関係にあります。
私は、すぐに「楽しさ」をあげつらう人々に違和感を持ってきました。
そんな楽しさは、有害無益だと言ってきました。
なぜなら、苦しさと裏表の関係にない「楽しさ」は、本物の楽しさではないからです。
城さんは、そんな本物のを楽しさを楽しむ高校生たちを育てているのです。
彼女は、くっきりとした輪郭を持って立っているだけ。
そこに何か複雑な技が駆使されているわけでなく、何か魔法があるわけでもない。
ただ「この俳句作品の中にあなたはいるの?」と、高校生たちに問うているだけ。
その姿は「くっきりとした輪郭を持って立っている」としか表現しようがありません。
でも、苦しさと裏表の関係にある楽しさを知った高校生たちは、勝手に言葉を突き詰めて、鋭い表現をつくりだしていくのですね。
余分な贅肉のないとても爽快な実践でした。
こんな言い方で、城先生の実践の魅力は伝わったでしょうか?
いささか心もとないのですが…。
あえてまとめるならば、表現活動体験のもつ素晴らしい力を、あらためて再確認することが出来た報告でした。
城先生、有意義な学びの場を御提供くださり、厚く感謝申し上げます。
次回演劇と教育研究委員会は、4月例会となります。
劇列車からの「パペットシアターPROJECTにみられるこどもと大人の変容」について報告します。
皆様、4月28日(日)演劇と教育研究委員会4月例会に参加してみませんか?
【釜】