投稿者「かまほりしげる」のアーカイブ

通常理事会・総会

5月になりましたね。
私たちは、新しい事業への助成金申請書類づくりで、あたふたしておりました。
特に申請書類締め切り直前は、ほぼ徹夜が2日間…。
もしこの企画への助成が採択されれば、孤立しがちな困難を抱える人々と社会をつなぐインパクトのある事業が展開されることになると考えております。さて、5月26日(日)は弊団体の年次通常理事会と総会の日です。
コアサポーター会員の皆様、どうぞお越し下さい。

弊団体舞台アート工房・劇列車は、いま急速に組織体質を転換しつつあります。
パペットシアターPROJECT(困難を抱えるこどもへの文化体験支援)の急拡大に合わせて、それを担える組織の体力をつけていくことが大切だからです。

つまり、弊団体の「フェーズ(局面)」が大きく変わりつつあるのです。

会員の皆様、議案書は郵送しております。
ただし、いま5月は、議案書作成段階の4月から見ても、新しい局面に入りつつあることがはっきりしてきています。

そのようなことは、総会に参加しないとわからないものですよ。

さて従来の上演活動では、会員の皆様に御参加いただける機会は少なかったですね。
今年以降は、会員の皆様が自発的に事業に参加いただける機会も、今までとは格段の違いで用意出来るのではないかと思います。

どうか通常理事会と総会にお越し下さいますようお願い申し上げます。
参加される前に、全面的にリニューアルされた弊団体HPを御覧になって参加していただければ、新局面を迎えつつある弊団体の現状もとらえやすくなるのでは、と思っております。
劇列車ホームページへのアクセスはこちらから

【釜】

演劇と教育研究委員会に参加しませんか

藤の花も真っ盛り。新緑もまばゆくなりました。さて、劇列車のリニューアルしたHPはもう御覧いただけましたでしょうか?
弊団体事務局長弥永作成による労作といってよいリニューアルです。

劇列車の現在のリアルな姿が、出来るだけ誤解の少ないように、ダイレクトに伝わるように工夫をしてあります。
まだ御覧になっていない方は、この機会に御覧いただければ幸いです。

またFacebookでは、事務局長個人のものから、団体用のものを開設しました。
こちらも御活用いただければ幸いです。

さて今日は、4月28日(日)開催予定の演劇と教育研究委員会第10回例会のお知らせです。
HPのイベント欄にも載せていますので、詳しくはそちらを御覧下さい。

第10回例会。
今回は、弊団体のパペットシアターPROJECT(困難を抱えたこどもへの文化体験支援)について、その実際の展開と顕れている効果についての報告とフリートークです。

他にあまり例をみないパペットシアターPROJECTですから、その実際の姿や効果について、あまり知られていないように思います。

それもあたりまえです。
困難を抱えたこども・親子ほど、文化(アート)へのアクセスは少なくなる傾向にあるのですから。
だからそれに合わせるかのように、文化(アート)にアクセスしたとことから生まれる大きな効果が一般に知られることも少ないといえるのです。

演劇と教育研究委員会は、弊団体会員のみならず、非会員の皆様にも開かれた研究委員会です。
パペットシアターPROJECTと私たちの社会の現状について、意見交換してみませんか?
皆様の御参加をお待ちしています。

繰り返しになりますが、場所等の詳細はHPを御覧下さい

【釜】

新作うしかたやまんば

きんぽうげ、野あざみ、しゃがの花も咲きました。
春満開ですねえ。

さてブログ更新がしばらく止まりました。
新年度の多忙の中で後回しになってしまい、申し訳ありません。

通常理事会総会準備、巡回公演広報準備、2024年度パペットシアター PROJECT始動準備、新作製作開始…。

なんだかたいへんそうに見えますよね。
実際たいへんなのです。羅列してみると、少しは皆様に伝わるでしょうか。

様々ことが、それぞれに重要なのです。
このスタート段階での仕込みの有り様が、2024年度に劇列車がどこまで走ることが出来るか、それを決めてしまいます。
その意味で、様々なことがそれぞれに重要なのです。

さて、今日は一つに絞ってみましょう。
新作「うしかたやまんば~里の婆が語るむかしばなし」についての、広報第一報。
それが今日のブログとなります。

「うしかたやまんば」。
この作品は、小学校1~2年生を中心においた久しぶりの低年齢向き人形劇作品になります。

子どもの発達段階からみて、どんな作品にしていくのか?
脚本段階で、そこにたいへん時間が割かれてきました。

一つ目の問い。
「いわゆる子ども向き作品としてしまえば、私たちの感じているものを手加減しようとすることにつながり、それは子どもをバカにしていることではないか?」。

二つ目の問い。
「子どもの発達段階を無視しての創造は、児童青少年演劇といえるのか?」

なかなか容易に一つになってくれないこの二つの問いの前に、何度も書き直しが進みました。
要約すれば、これは演劇観と子ども観の問題です。

この二つをどう統一するか?
これがなかなかに難しい。

優れた作品には、必ずと言っていいほど、この統一された土台がしっかりとあります。
表現の強度は土台づくりが支えるのです。
ですから、ここにも手抜きは出来ません。

そうして、脚本第6稿段階で、やっと稽古をスタートさせることが出来ました。
現段階では、脚本に沿いながら、空間とモノ(人形)の関係の土台づくりを進めています。

えっ…。
なんのこと言ってるの?

そう思われるかもしれません。

これは、「空間の中でモノが引き立つ位置を探っている」ということです。
例えると、部屋の中に飾る絵が引き立つ位置と、それほどでもない位置がある。
そんなことに気づいた経験をお持ちの皆様は、それなりにいらっしゃると思います。
その引き立つ位置を探っている段階と言えば、伝わりやすくなるでしょうか?
これはこれで、時間のかかる作業なのです。

どうにもピタッとくる位置と動きが見いだせない。

どうして?
あぁ、そうか。
ドラマの本質をとらえ損なっていた…。
このモノの動きと位置ではダメなんだ…。

そんなこともよく起きます。
このような試行錯誤には、知性と感性が総動員されますから、当然時間もかかるわけです。

最後にお知らせです。
この作品は、7月6日(土)に幼稚園関係の協会による大規模な祝賀行事の出し物として、久留米シティプラザ久留米座にて初演されます。

7月21日(日)には、石橋文化会館小ホール「おやこ人形劇場」にて一般公開されます。

皆様。
7月21日のおやこ人形劇場にて、その試行錯誤の結果を御覧いただければ、こんなに嬉しいことはありません。
(詳細は後日発表)

【釜】

頓田の森ぴーすきゃんどるナイトという集い

桜が咲きましたね。

さて、一昨日は劇列車が17年続けてきた頓田の森ぴーすきゃんどるナイトの日でした。
(現在は実行委員会方式の「頓田の森ぴーすきゃんどるの会」で開催)。

アジア太平洋戦争末期。戦争悲劇である頓田の森事件が起きた日に、悲劇の地頓田の森に集って、太鼓をたたき、歌を歌い、お話を聴く。
そして年に一度、79年前の悲劇で命を落とした子どもたちを想起する。

ただそれだけの集いが、ぴーすきゃんどるナイトです。
ただそれだけ。
声高に何かを主張しているわけでもありません。
凄いパフォーマンスが見られるわけでもありません。
ほんとうにシンプルな集いなのです。

私たち劇列車が言い出しっぺになってはじめたそんな集いが、17年も続いてきました。
それはそれで、よく続いてきたなぁと思います。

これはもはや、いい意味でのマンネリだと言ってもいいかもしれません。
年に一度集まり続ける意志の上にたった素敵なマンネリ。

そして昨年くらいから強く感じだしたことがあります。
それは、年に一度のこの場に流れる時間がとてもいい時間だというです。
年に一度、1945年3月27日の悲劇を想起する時間が、とても心地よいことです。

その場には事件を生き延びたサバイバーの方々がいます。
様々な人々がいます。

「お元気でしたか?」
「今日は晴れてよかったですね」

そんな何気ない会話が交わされ、それを桜の花が見下ろしています。
ずっと参加を続けできた方々だけでなく、新しい人々も参加しています。
それは3月27日の数時間だけ現出する幻のようにも思えます。
その時間が心地よいのです。

そこに積み重なった17年の時間の蓄積。
その蓄積も素敵なことです。

さて、戦争という名の暴力に対する一人ひとりの判断について書いて見たいと思います。
堅苦しい話しではありませんから、楽な気持ちでお読み下されば幸いです。

一人ひとりが自立して、戦争暴力に対する是非を判断出来るためには、身体に蓄積された記憶の存在が不可欠だと思っています。
記憶とは身体と強く繋がってあるのです。
あの時のにおい、あの時の恐怖というように、記憶は感覚機器としての身体と強く繋がっています。

戦争という巨大な暴力に対する一人の判断は、そこに土台を置かなければ、いとも簡単に激しい情報の流れに流されてしまいます。
いま、もっともらしくまことしやかな言葉が氾濫しすぎているように思えてなりません。

「東アジアの安全保障のためには…」
「沖縄は我慢してもらわんと…」
などなど。

でも、そんな言葉はどこから出た言葉でしょうか?
自分の言葉と錯覚してしまいがちですが、言葉の発生源まで掘ってみると、どこかで誰かが言っていた言葉であることが多いのではないでしょうか。

そんな言葉は、自分の記憶や感覚と切り離されていますから、身体性が欠落しています。
私は、そんな言葉の群れに危うさを感じます。

戦争記憶を想起する時間を原点にして平和を考えていかないと、

ちょっとヤバい。

のではないでしょうか。
79年前の悲劇の地に毎年咲いている桜。
その下での何気ない会話。

「お元気そうで…」
「はい、お陰さまで」
「桜が今年もきれいですねえ…」
「亡くなった子どもたちも、きっとよろこんでるでしょうねえ…」

そんな何気ない会話。
それとともに思い出される1945年3月27日の出来事。
それが記憶の想起です。

ぴーすきゃんどるナイトが育んできたそんな時間を、これからも大切にしていきたいと思います。
一昨日参加された皆様、ほんとうにありがとうございました。

さてブログをお読みの皆様。
これで2023年度の全事業を終了いたしました。
私たちは、ここで紹介してきましたように、それぞれの企画で、たくさんの「かけがえない、いい時間」を創ってきました。
てんてこまいしながらも、それは私たち上演班にとって幸せな時間でありました。

私たちの様々な企画に参加された皆様。
皆様にも同じことが起きていたら、こんなに嬉しいことはありません。
なぜなら、そのために企画を実行してきたのですから。

皆様、4月からの新年度もよろしくお願い申し上げます。

【釜】

新しい観劇スタイルの提示

昨日3月17日、P新人賞受賞記念久留米公演「さちの物語~一番言いたくないことは一番聞いてほしいこと」を無事に終了しました。

お越しになった皆様、当日ご都合がつかなくとも応援等いただいた皆様、どうもありがとうございました。

そして、お越しいただいた市民活動団体や久留米市男女平等推進センターの皆様、どうもありがとうございました。

当日の様子を少し報告してみます。

午前のゲネプロにいらっしゃった「さぽちゃい」(DV被害を受けた子ども支援団体)のH様と、
ゲネプロ終了後にいろんな話が出来ました。

この劇の主人公田中さちのような現実の子どもについておしゃべりしていた時のこと。

「その子はね、田中さちのようにものすごく頑張るのだけど、この頑張りがDVで受けた心の傷なんだと思うんだよね」。

「支援者はね、こんなに支援してるのに何でわかってくれないの?って思う時がある。これが支援者のはまり勝ちな落とし穴なんだよね」。
(意訳すればこういう趣旨の発言でした)。

それは、いちいち頷くことが出来る発言でした。
その通りなのです。

支援者と被支援者は対等です。
ですが支援を受けることが、被支援者にとって屈辱的に思えたりすることもあります。

被支援者が支援を屈辱的と感じとるのは、その方の人間としての矜持がそうさせるのです。
その事を踏まえて支援に取り組むこと。
これは支援活動の基本原則だと思います。

対話のひろばに参加された皆様からも、様々な発言が出されました。

「被害を受けた当事者が、その被害について言葉を発することはとても大変。そして言葉を発した後、自分を編み直していくこともとても大変」。

「自分を編み直す」

凄く素敵な言葉です。
この言葉は、自己回復のことを指しているのでしょう(そう思いました)。

「自分を編み直す」。

この素敵な言葉から、対話を深掘りをしていくことも可能だったでしょう。
「自分を編み直すって、どんなことですか?」と。

でも、その深掘りはしなかったのです。
絞り出すような声で(そう聞こえました)、絞り出された言葉。
ファシリテーターをしていた私は、その重みをきちんと受けとめていました。
でも深掘りしなかった。

深掘りすれば意図せず傷をえぐることにならないか。
そんな恐れが、心の中にふとよぎったからなのでした。
けれど、それは正しい選択だったのか?
後で何度も反芻しました。

他にもあります。
現実に困難を抱えた子どもに体面してある大人の方から、アドバイスを求められた発言。
対話の場は個人相談の場ではないため、それをスルーせざるを得ませんでした。
でも後から思ったものです。

対話のひろばで出された困り事に応えられるメンバーを用意しておき、いつでも相談に応えられる体制を整えておく対話の場ももありだな、と。

それだけ質感ある発言が続いた対話のひろばでした。
質感ある発言が続けば続くほど、ファシリテーターの瞬間の判断が問われます。
参加された皆様、拙い進行にお付きあいいただき、ほんとうにありがとうございました。

最後に、上演について述べてみます。
この作品の上演が、表現として高いレベルに達していることを改めて感じた実感がありました。
その根拠はここでは書きませんが、それを感じとったのは事実です。

そもそも表現行為はとても苦しいもの。
例えるならば、まるで厳冬の冬山に登るような、と言えるもの。

その苦しみの本質は、ある言い方をすれば「試行錯誤の苦しみ、自己を見つめて深く掘り下げていく苦しみ」です。
この出口が見えない苦しい時間に耐えること。
そこから何かを生み出すこと。
それが表現するという行為です。

そうして生まれた表現が人に伝わる時、表現者は至福に包まれますし、そうでない時は深く絶望してしまいます。
苦闘して練り上げた表現であればあるほど、至福も絶望も深くなります。

表現行為のそんな宿痾に腰を据えること。
そもそもそんなものだと、腰を据えること。
それが表現者としての覚悟なのでしょう。

誤解しないで下さいね。とてもよい上演だったのですよ。
だからこそ、ふとそんなことが頭をよぎった上演でした。

あぁ。
これも大事なことだな…と。

いささか個人的な報告にになってしまいました。
とにもかくにも、今回の公演では観劇と対話のひろばをワンセットにした「新しい観劇スタイル」を、本格的に提示出来ました。
それが鑑賞という行為の豊かな可能性を拓いたことも事実です。
会場にお越しくださいました皆様に、厚く御礼申し上げます。

【釜】