頓田の森ぴーすきゃんどるナイトという集い

桜が咲きましたね。

さて、一昨日は劇列車が17年続けてきた頓田の森ぴーすきゃんどるナイトの日でした。
(現在は実行委員会方式の「頓田の森ぴーすきゃんどるの会」で開催)。

アジア太平洋戦争末期。戦争悲劇である頓田の森事件が起きた日に、悲劇の地頓田の森に集って、太鼓をたたき、歌を歌い、お話を聴く。
そして年に一度、79年前の悲劇で命を落とした子どもたちを想起する。

ただそれだけの集いが、ぴーすきゃんどるナイトです。
ただそれだけ。
声高に何かを主張しているわけでもありません。
凄いパフォーマンスが見られるわけでもありません。
ほんとうにシンプルな集いなのです。

私たち劇列車が言い出しっぺになってはじめたそんな集いが、17年も続いてきました。
それはそれで、よく続いてきたなぁと思います。

これはもはや、いい意味でのマンネリだと言ってもいいかもしれません。
年に一度集まり続ける意志の上にたった素敵なマンネリ。

そして昨年くらいから強く感じだしたことがあります。
それは、年に一度のこの場に流れる時間がとてもいい時間だというです。
年に一度、1945年3月27日の悲劇を想起する時間が、とても心地よいことです。

その場には事件を生き延びたサバイバーの方々がいます。
様々な人々がいます。

「お元気でしたか?」
「今日は晴れてよかったですね」

そんな何気ない会話が交わされ、それを桜の花が見下ろしています。
ずっと参加を続けできた方々だけでなく、新しい人々も参加しています。
それは3月27日の数時間だけ現出する幻のようにも思えます。
その時間が心地よいのです。

そこに積み重なった17年の時間の蓄積。
その蓄積も素敵なことです。

さて、戦争という名の暴力に対する一人ひとりの判断について書いて見たいと思います。
堅苦しい話しではありませんから、楽な気持ちでお読み下されば幸いです。

一人ひとりが自立して、戦争暴力に対する是非を判断出来るためには、身体に蓄積された記憶の存在が不可欠だと思っています。
記憶とは身体と強く繋がってあるのです。
あの時のにおい、あの時の恐怖というように、記憶は感覚機器としての身体と強く繋がっています。

戦争という巨大な暴力に対する一人の判断は、そこに土台を置かなければ、いとも簡単に激しい情報の流れに流されてしまいます。
いま、もっともらしくまことしやかな言葉が氾濫しすぎているように思えてなりません。

「東アジアの安全保障のためには…」
「沖縄は我慢してもらわんと…」
などなど。

でも、そんな言葉はどこから出た言葉でしょうか?
自分の言葉と錯覚してしまいがちですが、言葉の発生源まで掘ってみると、どこかで誰かが言っていた言葉であることが多いのではないでしょうか。

そんな言葉は、自分の記憶や感覚と切り離されていますから、身体性が欠落しています。
私は、そんな言葉の群れに危うさを感じます。

戦争記憶を想起する時間を原点にして平和を考えていかないと、

ちょっとヤバい。

のではないでしょうか。
79年前の悲劇の地に毎年咲いている桜。
その下での何気ない会話。

「お元気そうで…」
「はい、お陰さまで」
「桜が今年もきれいですねえ…」
「亡くなった子どもたちも、きっとよろこんでるでしょうねえ…」

そんな何気ない会話。
それとともに思い出される1945年3月27日の出来事。
それが記憶の想起です。

ぴーすきゃんどるナイトが育んできたそんな時間を、これからも大切にしていきたいと思います。
一昨日参加された皆様、ほんとうにありがとうございました。

さてブログをお読みの皆様。
これで2023年度の全事業を終了いたしました。
私たちは、ここで紹介してきましたように、それぞれの企画で、たくさんの「かけがえない、いい時間」を創ってきました。
てんてこまいしながらも、それは私たち上演班にとって幸せな時間でありました。

私たちの様々な企画に参加された皆様。
皆様にも同じことが起きていたら、こんなに嬉しいことはありません。
なぜなら、そのために企画を実行してきたのですから。

皆様、4月からの新年度もよろしくお願い申し上げます。

【釜】

9歳以上の人形劇の楽しみ方

昨日おとといの土日は、小学校3~6年生を対象にした人形劇ワークショップ。
参加してくれたみなさん、送迎や昼食の対応をしてくださった保護者の皆様、ありがとうございました。

『人形劇といえば、小さい子どものもの』。これは多くの国の、一般的な見解です。
日本も例外ではありません。

人形劇はとても奥が深い。

ウグイスの鳴き声に春を感じ、キンモクセイの香りに秋を感じ、スズメの鳴き声で朝だと判断する。
日本人は、時刻や季節を判断するために聴覚や嗅覚までも道具としてつかい想像力をはたらかせます。
社会に流通している記号表現を組み合わせて人形劇を創っていく。この魅力はもしかしたら日本人にとってとても馴染みの深い手法かもしれない、なんて考えてしまいます。

『社会に流通している記号表現を組み合わせて人形劇を創っていく』
ちょっと抽象的な言い方をしてしまいました。

たとえば、人間の形をした人形が2体並んでいます。

この二人の関係性をどう想像しますか?

次に、三角形と四角形を足してみます。

いかがでしょうか。この二人の関係性は、多くの人にとって『家族』に見えるのではないでしょうか。

単純な例を出しました。
「三角屋根の建物の中に2人の人間が居る」という記号の組み合わせは、社会に流通している概念として「そこに2人家族がいる」という表現になります。
(これは、私たち日本人の多くがそう見るということです。社会に流通している文化が異なれば、この表現は通用しません。)

…なんだか文章で伝えるのってむずかしいですね。書きながらそう思っています。

9歳以上の子どもたちは、前述した内容のことを踏まえて創る人形劇にとても興味を示します。個人差はありますが、8歳までの人形劇の楽しみ方から大きく飛躍していくのです。
文章で理解するのは少し難しく感じることでも、ワークショップの中で人形をつかいながら「やる」「みる」を繰り返すとあっという間に理解できます。
理解すると、おもしろくなる。難しいことがおもしろくなるから、挑戦したくなる。

小学3年生以上を対象にしたワークショップを終えて、改めてそのことを感じました。
2日間つづけて参加してくれたみなさんにとって、人形劇表現の奥深い魅力を感じる2日間になっていたら、とても嬉しく思います。

【尚】

新しい観劇スタイルの提示

昨日3月17日、P新人賞受賞記念久留米公演「さちの物語~一番言いたくないことは一番聞いてほしいこと」を無事に終了しました。

お越しになった皆様、当日ご都合がつかなくとも応援等いただいた皆様、どうもありがとうございました。

そして、お越しいただいた市民活動団体や久留米市男女平等推進センターの皆様、どうもありがとうございました。

当日の様子を少し報告してみます。

午前のゲネプロにいらっしゃった「さぽちゃい」(DV被害を受けた子ども支援団体)のH様と、
ゲネプロ終了後にいろんな話が出来ました。

この劇の主人公田中さちのような現実の子どもについておしゃべりしていた時のこと。

「その子はね、田中さちのようにものすごく頑張るのだけど、この頑張りがDVで受けた心の傷なんだと思うんだよね」。

「支援者はね、こんなに支援してるのに何でわかってくれないの?って思う時がある。これが支援者のはまり勝ちな落とし穴なんだよね」。
(意訳すればこういう趣旨の発言でした)。

それは、いちいち頷くことが出来る発言でした。
その通りなのです。

支援者と被支援者は対等です。
ですが支援を受けることが、被支援者にとって屈辱的に思えたりすることもあります。

被支援者が支援を屈辱的と感じとるのは、その方の人間としての矜持がそうさせるのです。
その事を踏まえて支援に取り組むこと。
これは支援活動の基本原則だと思います。

対話のひろばに参加された皆様からも、様々な発言が出されました。

「被害を受けた当事者が、その被害について言葉を発することはとても大変。そして言葉を発した後、自分を編み直していくこともとても大変」。

「自分を編み直す」

凄く素敵な言葉です。
この言葉は、自己回復のことを指しているのでしょう(そう思いました)。

「自分を編み直す」。

この素敵な言葉から、対話を深掘りをしていくことも可能だったでしょう。
「自分を編み直すって、どんなことですか?」と。

でも、その深掘りはしなかったのです。
絞り出すような声で(そう聞こえました)、絞り出された言葉。
ファシリテーターをしていた私は、その重みをきちんと受けとめていました。
でも深掘りしなかった。

深掘りすれば意図せず傷をえぐることにならないか。
そんな恐れが、心の中にふとよぎったからなのでした。
けれど、それは正しい選択だったのか?
後で何度も反芻しました。

他にもあります。
現実に困難を抱えた子どもに体面してある大人の方から、アドバイスを求められた発言。
対話の場は個人相談の場ではないため、それをスルーせざるを得ませんでした。
でも後から思ったものです。

対話のひろばで出された困り事に応えられるメンバーを用意しておき、いつでも相談に応えられる体制を整えておく対話の場ももありだな、と。

それだけ質感ある発言が続いた対話のひろばでした。
質感ある発言が続けば続くほど、ファシリテーターの瞬間の判断が問われます。
参加された皆様、拙い進行にお付きあいいただき、ほんとうにありがとうございました。

最後に、上演について述べてみます。
この作品の上演が、表現として高いレベルに達していることを改めて感じた実感がありました。
その根拠はここでは書きませんが、それを感じとったのは事実です。

そもそも表現行為はとても苦しいもの。
例えるならば、まるで厳冬の冬山に登るような、と言えるもの。

その苦しみの本質は、ある言い方をすれば「試行錯誤の苦しみ、自己を見つめて深く掘り下げていく苦しみ」です。
この出口が見えない苦しい時間に耐えること。
そこから何かを生み出すこと。
それが表現するという行為です。

そうして生まれた表現が人に伝わる時、表現者は至福に包まれますし、そうでない時は深く絶望してしまいます。
苦闘して練り上げた表現であればあるほど、至福も絶望も深くなります。

表現行為のそんな宿痾に腰を据えること。
そもそもそんなものだと、腰を据えること。
それが表現者としての覚悟なのでしょう。

誤解しないで下さいね。とてもよい上演だったのですよ。
だからこそ、ふとそんなことが頭をよぎった上演でした。

あぁ。
これも大事なことだな…と。

いささか個人的な報告にになってしまいました。
とにもかくにも、今回の公演では観劇と対話のひろばをワンセットにした「新しい観劇スタイル」を、本格的に提示出来ました。
それが鑑賞という行為の豊かな可能性を拓いたことも事実です。
会場にお越しくださいました皆様に、厚く御礼申し上げます。

【釜】

いよいよ明後日、さちの物語公演

杏の花も咲きました。
こぶしの花も、ゆきやなぎも。
いよいよ春ですねえ。

さて、3月17日(日)のP新人賞受賞記念久留米公演「さちの物語」が明後日となりました。

12月名古屋公演で見いだされた課題をクリアする稽古も終えました。
といっても、課題を解決したら次の課題が視野に入ってきますから、実は稽古に際限はないといえるのですが…。
表現としてまだまだ「さちの物語」は、先へ行ける感触を持っています。

これは、現在の表現が悪いわけではありませんよ。
人間と人形の表現は、ハッと息を飲む瞬間を見せます。
それは、人とモノの関係で創る表現が、人と人との関係で創る表現より、もっと強いインパクトを
もつ瞬間です。

人間同士の表現もヒリヒリするほどの質感を造り出しています。

ですから、ここで言っている次の課題とは、「上演班が上演を重ねる中で気づいて改善を加えていくもの」という次元での課題だといえます。
ある段階で慢心する自己満足をすれば「表現者としての魂が死ぬ」といった次元での課題だといえます。

さて今回の久留米公演では、少ないですが各市民活動団体の皆様もいらっしゃいます。
ご多忙の中ご都合をつけていただき、ありがとうございます。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

そしてご観劇をご検討中の皆様、当日券の販売もございます。
よかったらいらっしゃいませんか?

「観劇と対話のひろばでワンセット」という新しい観劇スタイルを提示出来るもの、といささか意気込んでおります。
(もちろん観劇のみでお帰りになっても構いません。どちらの選択も可能です)。

さて対話のひろばとは、どこか哲学対話と似ている…、と感じる瞬間があります。

えっ?てつがくぅ?
何なのそれ。

そんな声が聞こえてきそうですね。
ここで言う哲学とは、永井玲衣氏のいう「手のひらサイズの哲学」のことです。
特に説明はしませんので、ご関心のある方は彼女の著書「水中の哲学者たち」をお読み下さい)

もちろん、私たちは哲学対話を模倣しようとかこれっぽっちも思っていま
せん。

今回で9回目となる観劇後の対話のひろば積み重ねを振り返ると、アフタートークでもなく批評対話でもない対話のひろば独特の特質が見えてきたことを伝えたいだけなのです。

アフタートークでも批評対話でもない、対話のひろば。

それを形容する時に、「哲学対話が似ている」と説明したりするのもありかな。

ふと、そう思ったりする時があるのです。

いや、哲学というものが一般に馴染みがないため、この形容をするともっと人を遠ざけてしまうかもしれませんね。

対話のひろばでは、難しいことを話そうとか人を感心させることを話そうとかは、全く関係ありません。
心配いりません。

大切なことは、他者の心から出たつぶやきを聴くこと。
そこから、自分だけでは発見できなかった(到達できなかった)ある視野を発見すること。
その事を楽しむこと。

出来るだけ落ち着いたフンイキで、静かに展開出来たら理想的だと思っています。
どうぞお越しください。

【釜】

さちの物語久留米公演近づく

3月になりました。
寒の戻りもありましたが、今週は暖かくなりそうですね。

さて、3月17日(日)のP新人賞受賞記念久留米公演「さちの物語」が近づいてきました。
再稽古も佳境です。
12月名古屋公演で見いだされた課題をクリアするために思いの外時間がかかっていますが、それもまた「苦しくも楽しい」ものです。

今回の久留米公演では、各市民活動団体の皆様とつながりたいというねらいの下に、制作活動を展開してきました。
演劇公演とは様々な方が集う「ひろば」なのですから、そのひろばに各市民活動団体の皆様に集っていただき、困難を抱えた子どもたちの回復について語り合えたら…と考えていたのです。

でもこれは冒険しすぎたのかもしれません。
現実には、市民活動団体はそれぞれの活動に忙しく、少し反応が鈍い状況です。
それもあたりまえです。
それぞれが、少ないスタッフをやりくりしながら、大きな課題に立ち向かってあるのですから。
よくわかります。
私たち劇列車も御多分にもれません。
各市民団体に働きかけを行った事実、そこからしか始まらないと思っています。

さて、私たちは演劇のもつ「ひろばづくり」の力を活用して、終演後に「対話のひろば」を開催してきました。
もちろん開催が可能な機会を活用してですが…。
今回公演で8回目の対話のひろば開催となります。

「対話のひろば」も、開催しながら進化してきています。
そして、いろいろなことを発見してきました。

それは…。

観劇しての感想は個人が所有するものだけど、個人で所有し続けている限りでは、ゆたかに膨らみにくいということ(所有の問題の発見)。

いつもいつも、こちらの予想を裏切る展開が、いい意味でも悪い意味でも待っているということ(他者性の発見)。

などなど…。

こう書いてしまうと「なぁんだ」と思われると思いますが、これがなかなかスリリングで刺激的な出来事であり、新しい問いと発見を生んでいきます。

パペットシアターPROJECTでみられたある対話の風景を紹介してみます。

「一郎くんのりスタート」後の対話のひろばで、中学生同士がおしゃべりしてました。
ある中学生が言います。
「一郎くんの赤いTシャツに描かれた1の字は、きっと親がつけさせたんだ」。

小学生の女の子が問い返します。
「なんでなんで?」
「だってさ、あの親ならそれくらいするだろ」
「へえ…。そっかあ」

それを聴いていた私たちはこう思いました。
「ムム…。おぬしら鋭い」と。

その中学生たちの一人は沖縄からきた子。
その後の舞台裏見学の時に、何気なくこんなことを言いました。
「沖縄はね、日本でないんだ」。

他の子たちは一瞬あっけにとられて、
「…。」

一瞬で放たれた鋭い矢。
虚をつかれて、それを受けとめきれない子どもたちの沈黙。
それは子どもたちの心に静かに新しい問いの波紋を生んだのでした。
(きっとそうだと信じたいところです)。

対話のひろばは、このように何が起きるか予想出来ないことがフツーに起こります。
その意味で、対話のひろばは参加者みんなで何が起きるかを楽しむ、そんな場を育てているのだと思います。
それが一人では気づけない気づきを生んでいく…。

皆様、よかったら3月17日は、さちの物語公演にいらっしゃいませんか?
そして対話のひろばまで参加してみませんか?

これは業界の人々がよくやる「アフタートーク」でも「批評対話」でもありません。
演劇教育関係者がよく言う「コミュニケーション力をつける取り組み」でもありません。
そんなものではなく、全く違ったもの。

あくまで参加者でつくりあげていく気づきの場。それが「対話のひろば」なのです。

面白いですよ!
よかったら来てみませんか?
その場で発言するも、聴くに徹するも、いらっしゃった方々の自由にまかされる場。
それが対話のひろばです。

【釜】