『対話のひろば』が目指すもの

昨日はパペットシアターPROJECT。ボナペティ様と連携して「一郎くんのリスタート」観劇と対話のひろばを実施いたしました。
当日の運営をお手伝いくださったみなさま、ありがとうございました。
また、ご参加くださったみなさま、ありがとうございました。

「一郎くんのリスタート」は、宮沢賢治童話「どんぐりと山猫」から着想を得て創ったスピンオフ作品です。私たちの作品の主人公一郎は、学校に行っていない(学校に行けない)少年と設定しています。彼の感じている閉塞感・孤立感、そして“出口”を見つけたあとの心理的開放感を、この作品で描いてきました。

不登校を経験した当事者・家族は、大きく頷きながらこの作品を観ます。ある方は、一郎が出口を見つけたことに共感し「私も出口を探し続けたい」と。時には登場人物の両親に心を寄せて「最初のころはこうだったよね」と。

一方で、不登校当事者以外の方々の感想は、両極端に分かれる傾向にあります。「不登校は経験していないけれど、涙が出るほど一郎の苦しみがよく分かる。」という感想と、「どう観ていいか分からない。」という感想です。

このお話は、寓話です。たとえ話のスタイルを取っていますので、観客にとっての経験の引き出しと結び合わせて観る作品です。そのため、個々人の人生経験によって受け取り方が大きく変わります。

自分の感想は、自分だけの大切なものです。
ところが、観劇後のおしゃべり会「対話のひろば」の時間に、自分の感想と他者との感想を聞き合うことで、とたんに深みのある感想になっていくのです。

対話のひろばが終わると、ある方がこんな感想をおっしゃってくださいました。
「自分は“こういう話だろう”と理解して観ていたけれど、他の方は“ひっかかるポイント”が違っていて、それがおもしろかった。」

そうですよね。他者の感想を受けて再び自分の感想を思い返してみると、“なぜ自分はそう感じたのか”“どうして他者はそう感じたのか”と、劇を観た直後の感想よりさらに深い思考に入ることができます。
「対話のひろば」は、参加者同士のそのような化学反応をねらっています。
このような化学反応の場では、私たち上演班もいち参加者にしかすぎません。みなさんのご感想から、私たち自身も思考が深まっていきます。そこには、“一方的に発信する上演者”と“受け身の観客”という境界線なんて生まれるはずがありません。誰もが自分自身の思考の海に潜り込み、自己内対話を行いはじめるのです。

対話のひろばの時間は、“算数の時間”“体育の時間”のような「こうしなければならない時間」ではありません。参加したみなさんにとっての自己内対話のひとときとなることもあれば、参加したみなさんが苦しみを言語化するカミングアウトのひとときになることもあります。

一郎の苦しみに自分の人生で経験してきた苦しみが共鳴し、しゃべりたくなる。聞いていた別の方がその方の心の琴線に触れ、自分もしゃべりたくなるという連鎖が生まれることもあります。
言語化することは、とても大切なことです。他者に向かって発信するときに、「あぁ、自分が苦しんでいた事柄はこれか」と自分の中の苦しみが輪郭をもってはっきりと見えるようになるのです。私自身が、その経験をしてきました。

はっきりと輪郭が見えてくると、「ぼんやりと漫然とただひたすら苦しんでいる」心の状態から、「苦しんでいる理由が分かる」心の状態に移行します。
苦しいことには変わりないのですが、本人の心理状態には雲泥の差があるのです。

誰かの苦しみのカミングアウトに背中を押され、自分の苦しみもカミングアウトできる。それは、「これを発言しても大丈夫」と思える場が成立したときに生まれる結果です。強制されて話せるものではありません。

自分自身や家族が不登校経験者ではないと、“不登校”に含まれる具体的な問題は分からないかもしれません。でも、学校に行けなくて苦しんでいる子・家庭の苦しみには、自分の苦しみの経験をもって共鳴することができるのです。

ボナペティ様と連携して実施したパペットシアターPROJECTでは、ほんとうにたくさんの、多様な化学反応があちこちで起きていました。
参加されたみなさまにとって、「あぁ、参加してよかったなぁ」と思える時間となっていましたら、こんなに嬉しいことはありません。

最後に、今回の実施に当たり、フリースクール関係者や学校に行けてない子どもがいる家庭の方々など、あちこちに声を掛けてくださったボナペティ様。
催しの終了後もひっきりなしにボナペティ事務局長T様と話し込んである参加者の方々の様子を拝見しながら、食材支援を超えた“心の支援”の実際を目の当たりにさせていただきました。
ボナペティT様ならびにスタッフのみなさま、本当に、お疲れ様でした。

【尚】

不登校の子どもを支援するクラウドファンディング

本日は、クラウドファンディングの御紹介です。ちくご川コミュニティ財団様が、「子どもの多様な学びの場を保障するための基金」設立のクラウドファンディングを実施中です。
期間は1月いっぱいまで。300万円を目標にしてあります。
子どもの多様な学びの場を保障するための基金を立ち上げたい | 一般財団法人ちくご川コミュニティ財団 (congrant.com)
この基金は、不登校の子どもがフリースクールに登校するための奨学金として活用されます。不登校の子どもがフリースクールに通うための奨学金?
それってどういうこと?
そんな疑問を持たれる方も多いと思います。
いや、そんな疑問を持たれる方の方がまだまだ多い状況だと思います。

現在、全国で不登校の子どもたちが約30万人います。そして増加中です。
さて不登校になると、子どもは孤立します。
「子ども時代に友人関係が必須のものである」ことは、子どもの発達に御関心のある方々には容易に想像できることだと思います。
不登校になると、友人関係が途切れます。
現代日本では、子どもの友人関係がほとんど学校で育まれているのですから。

親にしても相談相手が見つからないと、社会的に孤立しがちとなります。

フリースクールは、不登校になって孤立を深めていく子どもと親の社会的なつながりを確保するために、また子どもの学びを保障するために、とても大切な場であるといえます。

しかし。

統計でみてみると、30万人の不登校の子どもの中で、フリースクールに通う子どもは、わずか8%。

なぜなら、フリースクールの平均月謝が3万円を越えているからです。
フリースクールの運営に奮闘してある方々は、様々な助成金を組み合わせながら、学びの場を維持してあります。
その御苦労は並大抵のものではありません。

フリースクールは公教育の外側に位置付けられています。
フリースクール運営者たちがどんなに奮闘努力しても、どうしても月謝が高額となり勝ちです。
つまりフリースクールに通学するためには、家庭の経済基盤が必要な状態であるのです。

では、30万人の不登校の子どもの8%が現在フリースクールに通っているとして、残り92%の子どもはどうしているのでしょう?

中には、各地方教育委員会が設けている適応支援学級(受入数が限られています)に通う子どももいるでしょう。
また再登校する子どももいるでしょう。

でもそれらにあてはまらない子どもたちは?
どうしているのでしょう?
彼らが、社会的つながりからも学びからも切り離され、孤立していることは容易に想像出来ます。

私たちは、弊団体がパペットシアターPROJECTを積み重ねた経験から、この「見えなくされている子ども」が膨大に存在していることに気づいていきました。
ここに社会の手が差しのべられていないことに、気がついてました。

不登校と家庭の経済問題は、密接に結びついています。
そもそも不登校と貧困の因果関係は、指摘され続けた問題です。

だからこそ「フリースクールに通うための奨学金」が必要なのです。
ちくご川コミュニティ財団様の今回クラウドファンディングは、じつにタイムリーです。
ほんとうに待たれていた企画なのです。

なかには、「教育行政がすべきことだ」とお考えの皆さんもいらっしゃることでしょう。
全くその通りです。
しかし、現在のところ教育行政にその動きはみられません。
だったら、フリースクールに通う奨学金設立のために、まず市民が立ち上がる。
それは理にかなった動きです。

まずは市民が奨学金を設立し、それを広げ、そして教育行政を動かしていくのです。
そのような市民の輪が広がり強くなることが、いま大切なことなのだと思います。

最後になります。

「フリースクールに通う奨学金を設立することで、不登校の子どもと親を支援する」。
このことの背景には、上述したように複雑なことがあります。
ですから、一言では市民の皆さんに伝わりにくい状態にあると思われます。

このクラウドファンディングを成功させるには、たくさんの力が必要です。
しかし、一言で相手に伝わりにくいこの取り組みは、「市民の理解が難しい」壁にぶつかることになります。

けれども。

このクラウドファンディングを成功させるために様々な取り組みをすること自体が、不登校の子どもをみんなで支えていこうという機運を高めます。

皆様。
どうかちくご川コミュニティ財団様のHPを覗いてみてください。
そして、ちくご川コミュニティ財団様のクラウドファンディングに御協力いただければ幸いです。

ちくご川コミュニティ財団様。
今回のクラウドファンディングの御成功をお祈り申し上げます。

【釜】

寄付つきチケットを始めます

新年、明けましておめでとうございます。

2023年を振り返ってみます。
昨年は、作品創造において「一郎くんのリスタート」と「さちの物語」にて、誰も否定出来ない結果を出しました。
野球に例えるならば、ヒット連打の1年でありました。
創造面での大きな飛躍をみた1年だったと思います。

2024年、劇列車はNPOとしての飛躍を計画しております。
今日は、3月17日定期公演コンセプトと新しい取り組みを皆様に紹介させていただきます。

3月17日第24回定期公演。
①それを「P新人賞受賞記念久留米公演」と位置付けます。
その場で、傷ついた心の回復のきっかけを描き出した「さちの物語~一番聞いてほしいことは、一番言いたくないこと」を上演いたします。
(これは皆様にお伝え済みですね)。

それに加えて、以下のことを公開いたします。

②久留米エリアで活動する「困難を抱え込まされた人々を支援するCSO」の方々にも集っていただける呼びかけを行う。そして、関心ある方々が集まるような上演会にする。
そんなコンセプトで臨みます。

もちろん「観てみたい」という皆様も大歓迎です。

そこで試みられる新しい取り組みについて、ご案内いたします。
③この公演から「寄付つきチケット」を新設いたします。

寄付つきチケットとは何なのでしょう?

大人チケットは、今回は1枚1800円で販売予定ですが、それに1200円分の寄付を付けたものが「寄付つきチケット」です。
寄付つき3000円のチケットとして、販売いたします。

寄付分にあたるのは1200円分。
御寄付は、弊団体「バペットシアターPROJECT(困難を抱えるこどもへの文化体験支援)」に使用させていただきます。

バペットシアターPROJECT遂行にあたって、その持続性を確保していくために自己財源確保努力が求められています。
それはあたりまえの努力義務です。
バペットシアターPROJECTに責任をもつこと、それと自己財源確保努力をすることは、表裏の関係にあるのですから。

現行のバペットシアターPROJECTは、WAM(独立行政法人福祉医療機構)から助成を受けて実行しておりますが、やはり自己財源確保努力が課題だと、つくづく痛感しております。

それでは、自己財源確保努力をどうやって行うか?

第一段は、2024年度から導入される「コアサポーター会員会費の値上げ」です(昨年5月通常総会で承認済み)。

コアサポーター会員制度は、旧来「会費を支払うと、その代価として御招待チケットを進呈する。その関係性によって劇団を支援する」制度でした。
つまり劇団制度に適した制度だったと言えます。

それを「困難を抱えた皆様をアートで支えるNPOを支援する」制度へと変更いたします。
つまり、劇団への支援制度からNPOへの支援制度へ。
「お金での支援に対して現物による見返り」ではなく、「お金での支援に対してこどものよろこびによる見返り」へ。
それに伴う会費値上げです。
現コアサポーター会員の皆様、何とぞ新制度移行後も御支援の継続をよろしくお願い申し上げます。

次の第二段が「寄付つきチケットの新設」になります。
もちろん、どれくらい寄付が集まるかわかりません。
しかし、もし集まる金額が少ないという結果になっても、落胆する必要は全くありません。
次のことが言えるからです。

バペットシアターPROJECT(困難を抱えたこどもたちへの文化体験支援)に対する寄付を市民に訴える。
それは市民の間にこの問題に対する関心を高め、共感の輪をひろげることになる。
そんな積み重ねが、次の段階で寄付拡大につながっていく。
そう思われます。
これは重大な変化につながる可能性を秘めています。

劇列車がやろうとしてきた「バペットシアターPROJECT」は、いつも理解されがたいものとして、行政に働きかけて無視されてきました。
けれど私たちは、全くめげませんでした。
私たちは、無理解に対する変化が必ず生まれると確信していました。
なぜなら、誰もが潜在的にその必要性に気づいているのだからと。

ですから、バペットシアターPROJECTの意義を見いだしていただく機運が訪れた時、この企画は羽ばたきはじめることが出来ました。
それが支援の具体的実践へとつながりました。

寄付制度の導入にしても然りだと思います。
即効効果がなくとも、この導入は確実に未来を開いていくものと確信しています。
それが更なる支援の充実という結果を招く。
そう考えています。

さて皆様。

1月は、昨年中に仕込んでおいた様々な新企画を軸に、ブログにて皆様に御紹介差し上げていきます。

はじまった2024年。これからの1年、「上演班をもつユニークなアート系NPO」舞台アート工房・劇列車に、皆様の御関心をお寄せくださるよう、お願い申し上げます。

【釜】

演劇と教育研究委員会例会を終えて

すっかり冬らしくなりました。本ブログが2023年最後のブログとなります。

24日日曜日は、演劇と教育研究委員会12月例会でした。
「浦河ペテルの家の対話実践」(塚本眞さん報告)をめぐって、たっぷり2時間フリートークをしました。
(ベテルの家を御存知ない方は、ネットで検索してみて下さいね。
たいへん興味深いことがわかってくると思います)。

フリートークでは「知的財産(知識やスキル)は、私的所有されてよいものか?」という問題が、私の心のフックに最もひっかかった議論でした。

知的財産は、多くの場合、個人の社会的地位向上や、名誉心の満足、個人の権威に人をひれ伏させることに向かいます。

これが私的所有。
これを違った言葉に翻訳すれば、「文化資本の獲得と蓄積」と名付けることも可能です。

(しかし、「資本」とはよく言ったものです。
資本とは利潤を生み出す「元手」のことですから、資本主義社会にあっては、文化資本を含めて、資本が私的に所有されるのが当たり前のことになっています。
だからか、文化資本の蓄積・私的所有が、あたかも善いことのような錯覚を生み出しています。
しかし、よく考えてみると果たしてそうなのでしょうか?
文化資本を蓄積して人より優位な立場に立とうとか、「そんな狭い了見をもつちゃあ、フテェ野郎だ」と言いたくなるのですが。
少なくとも私は…。)

そもそも知的財産は、社会課題を解決していくために有効に使われなくてはならないものです。
これは社会課題の解決を図るために黙々と活動しているNPO関係者なら、自然に解りあっていること。

簡単に言えば、「自分の知識やスキルは、困っている人のために使ってこそ」ということです。
これが知的財産の社会的共有。

新自由主義が席巻する現代においては、私的所有か社会的共有かという正面からの議論が、決定的に消失しています。
ですが、真面目に社会課題の解決に取り組んでいるNPO関係者たちは、違った言葉で同じことを、いまも活発に語りあっているはずです。

まとめてみます。
「私的所有か社会的共有か」という問題群は、決して古びたガラクタ問題群ではなく、知的財産(表現行為を含む)に対するラディカル(根底的)な問題群であり続けているということです。

いやはや、演劇と教育研究委員会12月例会は、個人的にもたいへん面白く示唆に富むものでした。

さて皆様。
2023年のブログは、いささか理屈っぽく終わりとなりました。
1年間の御愛読に御礼申します。

2024年は、世界と人間の危機がより深刻に進むと思われます。

「たとえ明日世界が滅ぶとも、私はただ黙々とリンゴの木を植える」という、一見悲観的にみえて強靭な楽天性を帯びたこの言葉を心にしまい、劇列車は黙々と2024年を歩むつもりです。
今までもそうでしたし、今からもそうなのです。

この不幸な時代にあっても、2024年が皆様にとって幸い多い年でありますように。
心からお祈り申しあけます。
来年もよろしくお願い申し上げます。

【釜】

さちの物語久留米公演に向けて~作者から皆様へ

いよいよ年の瀬です。
外は一面、雪景色。

新作「さちの物語~一番聞いてほしいことは一番言いたくないこと」初演が終わり、ホッとしています。
初演を終えて、作者として皆様にお伝えしたいことを、今から三つお伝えします。
久々の長文となりますので、お付き合いいただければ幸いです。

さて第一に。
「さちの物語」は、被虐待児「田中さち」の傷ついた心の自己回復のきっかけを描いています。
これは、稽古途上で何度もお伝えしてきました。
初演を終えて、付け加えてみたいことが生まれたので、補足をしておきます。

それは、
自己回復の必要性は、「被虐待児に必要なもの」に留まるものではないということ。
私たちは、それを公開稽古から初演の過程で発見してきました。

或る方がおっしゃいました。
「これは虐待・貧困・いじめを串刺しにして、傷つけられた者たちを元気にする劇」だと。

「アッ、そうだ!」

私たちは膝を手で打ちました。
「そう、それに間違いない」と。

自己回復は、貧困や差別など、背負わされた困難を抱えた人々全てに、必要なものと思われます。

そこで、現段階ではこの劇について回っている、一つの誤解についての所感を申し上げたいと思います。
その誤解とは「この劇は自分たちのことを表現したのだ」という誤解。
それについては、
「これは自分たちのための劇ではありません」とお答えをしておきます。

「さちの物語」は、私たちための劇ではなく、被虐待児のための劇でもなく、困難によって傷つけられた人々のための劇なのです。

逆から言えば、困難によって傷つけられた人々ための劇であり、被虐待児のための劇であり、私たちのための劇なのです。

分かりにくい言い方かもしれません。
この劇は、個人的な個別性を突き抜けて、様々な人に通じる普遍性を持っていると言いたいわけなのです。
これで、言いたいことを少しはお分かりいただけますでしょうか?

二番目に。
私たちは、この苦しくも楽しい作品創造過程において、「さちの物語」に取り組んでいなければ、ボンヤリとしか理解出来ていなかったであろう様々なアレコレを発見しました。
ボンヤリしたものが明晰に、かつ身体をとおった言葉としてドンドンわかってきたという感覚があります。

「自己回復」とは、きっと自分に対する誇りと未来への意欲を取り戻すことなのでしょう。
言い替えれば、人間らしい感情の取り戻しであり、自分の言葉を発見することであるのでしょうか。
また、人間として「立ち上がる」ということでもあるのでしょう。

もちろん、上述のことはあくまで私たちの発見であって、観劇された皆様の発見とイコールになるものではありません。
観劇された皆様には、一人ひとりの発見の自由があります。

その上での話になりますが、私たちが発見してきたこれらのことは、「アッ、そうだ」と電光石火でわかる方もいらっしゃれば、「???」と考えてしまう方もいらっしゃると思います。

でも上述のことは、「確かにそうなのです」としか言いようがありません。
大事なことは、電光石火でわかることではなく、考えて考えて、「やっとわかる」ことも大切だということです。

これは劇の内容が難しいと言っているわけではありませんよ。
劇はいたってシンプルで分かりやすいのです。
これは深く傷つけられた体験、自己回復の体験のあるなしの問題だと思っています。

三番目に。
今振り返ると、私たちはきっと「田中さち」の立ち上が姿、その姿の美しさを描きたかったのでしょう。

何を美しいと感じるか(美意識)も、一人ひとり違います。
私たちは、深く心が傷つけられた田中さちが「立ち上がる」姿、その姿を美しいと感じてきたのです。
これが私たちの美意識であるのです。

多くの方は、それを「みすぼらしくも貧乏くさく、見たくないし何が美しいかさっぱりわからない」というかもしれません。
しかし、私たちは確かにそれを美しいと感じています。

ですからこの劇では、劇中ラストの田中さちの無言の動きのところのみに音楽を入れました。
ほとんど無音で進む劇ですが、その一点にだけ音楽が入れています。
それは田中さちの「立ち上がり」を祝福したかったから。
私たちの美意識は、そこにあります。

以上です。

最後になりますが、名古屋でのP新人賞受賞記念公演では、ふじたあさや先生から、御丁寧な批評コメントをいただきました。
3月17日(日)久留米公演では、その御批評を指針に、もっと改善を加えたものを皆様が御覧出来るようにします。
また、まだあいまいな演技方法論の突き詰めも必要です。

しかし言えることは、
傷つけられた心を抱えて回復のきっかけを掴めず、誰にも聞こえないうめき声をあげてある皆様と共に歩む劇であることは間違いありません。

この「さちの物語」は、この社会が打ち捨てて省みることのなかった者(田中さち)が「それでも生きる」と、静かに決意します。
つまり「底辺からの人間讃歌」なのです。
よかったら、「さちの物語」を観にきて下さい。
この劇は、私たちの劇であり、傷つけられてきた人々の劇です。

3月17日(日)石橋文化センター小ホールで開催する地元久留米でのP新人賞受賞記念公演に、お越しくださることを楽しみに待っています。

そして私たちと、一緒におしゃべりしてみませんか?
きっと、それは楽しい時間になるはずです。
いや、そうしてみせます。

私たちと重なりあう皆様、お越しをお待ちしています。
また私たちと重なりあうことのない皆様のお越しをお待ちしています。

【釜】